左から斎藤工、樋口真嗣監督、円谷プロの祭典「TSUBURAYA_CONVENTION 2019」にて

樋口真嗣監督×斎藤工『シン・ウルトラマン』デザインお披露目

映画会見/イベントレポート
成田亨「真実と正義と美の化身」1983年
成田亨「真実と正義と美の化身」1983年
成田浬さん

・「シン・ウルトラマン」のデザイン発表に寄せて

昨年の初春、 母と私のもとへ庵野秀明さんが来訪され「『真実と正義と美の化身』を映画にしたい」と仰っていただいた時のことは忘れません。 耳を疑うほどに嬉しかったのです。

父、 成田亨は、 自身が試行錯誤しながら生み出した「ウルトラマン」を、 生涯を通して深く愛し、 誇りに思っておりました。

同時に、 その「ウルトラマン」を生み出した自身の名前がクレジットから消され、 デザインが変質され、 商業的に利用され続ける人間社会に深い悲しみと絶望を抱いておりました。 その心を正直に発した事で、 誤解や誹謗中傷も受けました。

父は悲しみが癒されることなく2002年に他界しましたが、 その背中を通して多くを感じながら育てられた私は、 父を誇りに思い、 時に哀れに思い、 そして心から尊敬しています。

生前の父の言葉を思い出します。 「本物は残る、 本物であれ」

『真実と正義と美の化身』は、 芸術家として生きた当時の父の全てが注ぎ込まれた油彩画です。 その絵画が、 当時まだ子どもとしてウルトラマンを見ておられた庵野さんの感性に50年以上の時を経て触れ、 才能を発揮し続ける庵野さんの稀有な感性と交わり、 「シン・ウルトラマン」としてどの様な姿でスクリーンに蘇るのか、 期待に胸が膨れ、 熱くなっております。

昭和の子どもが心踊らせた「ウルトラマン」が、 令和の子どもたちに「シン・ウルトラマン」として蘇る。 子ども達の心に残る忘れられない映画の誕生を心待ちにしております。

                             成田浬 2019/12/12

成田亨さんプロフィル
1929年9月3日、 神戸市生まれ。 生後間もなく青森県へ移り、 以後、 青森県と兵庫県内の転居を繰り返す。
1954年、 武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)彫刻研究科在学中、 「ゴジラ」の美術スタッフにアルバイトとして参加。
これを機に東宝だけでなく大映や松竹、 東映などの特撮美術に携わり、 1960年、 東映の特撮美術監督に就任。
1965年、 円谷特技プロ(当時)と契約し、 同社の「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「マイティジャック」などで、 ウルトラマンをはじめとするキャラクターや怪獣、 メカ、 防衛隊のコスチュームや基地のセットにいたるまでをデザインし、 映像作品の世界観構築に多大なる功績を残した。
1968年にフリーとなってからは、 「突撃! ヒューマン!!」などの特撮や「樺太1945年夏 氷雪の門」「新幹線大爆破」「この子を残して」「麻雀放浪記」など映画美術のほか、 百貨店のディスプレイや博覧会、 催事場のデザインなど活躍の場を広げていった。
2002年2月26日、 多発性脳梗塞のため永眠。 享年72歳。
2003年「アート・ツアー・イン青森 成田亨が残したもの」展、 2005年「成田亨の世界」展、 2007年「怪獣と美術」展、 2014年~2015年「成田亨 美術/特撮/怪獣」展が開催された。

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